ここに一振りの剣がある

誰もその刀身を見たことは無く

故に何も斬ることはない

その鞘に収まった剣を

彼女の家は代々受け継いでいた









『一振りの剣』









「この剣に斬れるものはたった一つ、そのたった一つが自分の前に立ちはだかるまで、
 この鞘から決して抜くことはできない。そういう言い伝えなの」

「たった一つ?」

アウローラの恋人、クリスが何度目かの同じ台詞で尋ねる。
二人はもう何度も同じような会話をしてきていたのだ。

「そう、でもそれが何なのかわからない。神様かもしれないし悪魔かもしれない」

「もしかしたらこの花かもしれないね」

そう言いながら何処からか一輪の花を取り出した。
決して枯れることのないという薔薇の花だ。
もちろん造花ではない。

「この花が私の前に立ち塞がるなら、その可能性もあるわね」

「それは大丈夫。俺からの贈り物だから」

「なら安心ね。ありがとう」

アウローラは騎士の家系で、代々その剣以外を持つことは許されていなかった。
もちろんそれをやめることはできたが、彼女はいつかこの剣を使うときがくると、
そのときはきっと国を、人々を救うときなのだと頑なに信じていた。
だが、鞘に収まったままの使えないない剣を使う騎士を、誰が騎士と認めるだろうか?
ただでさえ彼女は平民上がりの自由騎士で、身分は決して高くない。
騎士団の中で彼女がどのような位置にいるのか、想像に難くない。
彼女を庇うものはおらず、彼女を形容するのは侮辱と誹謗の言葉だけだった。
ただ一人、恋人のクリスを除いては。

二人は真に愛し合っており、彼女にとっては家族以外ではただ一人の「味方」。
彼は貴族の中でも高い地位をにあって、彼に逆らうものは誰も居ない。
彼女は彼のおかげで騎士として生きられる、そんな自分を恥じることもあったが、彼女は信じていた。
彼女の持つ剣で、いつか必ず国を、そして恋人を救うときがくると。








ある日、クリスは街の小さな教会に訪れていた。
入り口の扉はきちんと閉まらず、歩けばほこりが舞い上がりる。
その教会はもう廃墟と化していて、彼以外に誰もいなかった。
ここは彼が幼い頃、唯一とも言える貴族以外の友人と遊んだ場所だった。
その友人、アンジェロとももうずっと会っていない。
ふたりの立場が時を経て著しく変化してしまったからだ。
クリスは騎士、友人は革命家に。
守る者と壊す者。
掛け違えたボタンを直すには二人は大人になり過ぎていた。
しかも友人は今は牢の中。
「その時」を待つ死刑囚だった。


クリスは祭壇の前に立ち、すでに失った日々に想いを巡らせていた。
まだ別れる前の川に遡る魚のように、意識は遠い過去にあった。

そうしているうちに誰かが背後に近づいてきているのに気がついた。
過去へ飛んでいた意識を戻して振り返ると、そこにいたのは彼の恋人だった。

「アウローラか」

「えぇ、アウローラよ。またここに来てたのね」

彼女は長椅子に積もった埃を確認するかのように、指で背もたれを触りながら彼の方へ近付いていく。

「あぁ、よくわかったな」

「判るわよ。貴方の事だからね」

そして彼の横まで来ると、神に祈りを捧げるために手を合わせ、瞳を閉じた。
彼女はいつもこうして目を閉じ、ひとより長い時間祈りを捧げている。
クリスはいつもこうして祈る彼女を見ながら思う。
騎士ではなく聖職者になっていたなら、と。
間違いなく彼女は素晴らしい聖職者になっていたに違いない。
ただ彼はそのことを話したことはない。
彼女が騎士であることに、彼女自身が誇りを持っていたからだ。

「アンジェロの死刑執行日が決まった」

「・・・そう。いつなの?」

「次の満月の翌日」

「もうすぐ、ね。でもこんなこと言ってはいけないのかもしれないけど牢屋に入ってる期間があっただけましかしら。
 誰のおかげだか知らないけどね」

政治犯は通常捕まってすぐ刑に処せられる。組織についての情報を洗いざらい吐かさせられた後で。

「知ってたのか」

「知らないって言ってるのに・・・」

「分かるさ」

「どうして?」

「君のことだから」

アウローラはその言葉を聞いて、何かを考えるように腕を組んだ。
彼女は祭壇から三歩離れ、振り返ってこう聞いた。

「それじゃあ、これから私が聞くこともわかる?」

「・・・・・・いや、分からない」

彼女は一呼吸置いて、答えを話し出した。

「彼に会いに行かないのはどうして?そのために裏で貴方の大嫌いな取引までして引き伸ばしてたんでしょう?
 立場は変わってしまったかもしれないけど、大切な友達だって言っていたのに・・・」

「その立場の違いが大きすぎるんだ。だから、どんな顔して会いに行ったらいいのか、分からない」

「会いたくないの?」

「・・・・・・・・・・・・」

クリスは黙って目を逸らした。
だが、言葉はなくてもアウローラには気持ちが伝わってしまう。
良くも悪くも二人は互いに分かり合い過ぎていた。

「ねぇ、会いに行くこと自体が救いになることもあるんじゃないかな」

「え?」

「私だったら、それが最後だとしても、会いに来て欲しいよ」

「・・・・・・アウローラ」

「それじゃあこれから仕事あるから。行くね」

アウローラは振り返り出口に向かった。

「ありがとう」

その呟きが聞こえたのか、聞こえなかったのか、
アウローラは振り返らずに右手を挙げ、そのまま強く触れれば壊れそうなドアをそっと開けて出て行った。
















その夜クリスが考えていたのは二つのこと。
一つはもちろん、アウローラが背中を押してくれた古い友人のこと。
こちらはもうできることは限られていた。
政治犯である彼を獄中から救うことはできない。
できるのは、会いに行くことだけだった。
彼は権力を乱用することは好まなかったが、今回はそれをもう一度使って会いに行くことにした。
これくらいのわがままなら神様も許してくれるだろう、そう思って。

もう一つはアウローラの持つ剣のこと。
どうすればあの剣を鞘から解き放つことができるのか。
彼も彼女と同じように、その剣がいつか国を救うのだと信じていた。

彼はここ数ヶ月彼女の持つ剣の事を調べていた。
かつて一度だけあの剣が鞘から解き放たれたことがあった。
もう100年以上も前のことで、そのことを知るのは歴史の本だけだった。
今、彼の手にしているのは自らまとめた彼女の家に伝わる剣の資料である。

「かつて、この国が魔族の侵攻によって滅亡の危機に陥ったことがあった」

「それを救った騎士が、彼女の祖先・・・。それも、たった一つのものだけを斬れる剣で・・・」

歴史の本のなかでもっとも彼女の剣について詳しく書かれた本でも、そこまでしか書かれていなかった。

「国が危機に陥ったときに、魔族を倒した。魔族を斬れる剣、それだけなのか?」

もちろん、斬るだけならどんな剣でもできることだろう。
だが、その本にはそれしか書かれていない。

「だけど、そうか、相手が強いほど威力を発揮する剣なのかもしれない」

「でも、それじゃあ・・・・・・」

世界が魔族の侵攻に悩まされていたのは昔の話。
この国は、特にこの100年の間は平和そのものだった。
彼女がその剣を使う機会など訪れる日が来るのだろうか。
もし、その日が来たとして、それはつまり国の危機だ。
騎士団も現在では他国の侵攻に備えるだけで魔族との戦闘などは想定していない。
もし今魔族がこの国を襲ったのなら、いともたやすくこの小さな国は滅びてしまうだろう。

しかしそもそも全ては魔族が襲って来るのか、来ないのかにかかっている。
おそらくは後者だろう。彼にはどうすることもできない。

「何を考えてるんだ俺は。魔族が攻めて来たらいいなんて・・・・・・」

「その願い叶えて差し上げましょう」

「誰だ!?」

突如部屋にに現れたのは一人の魔術師らしき女。
いや、まるで絵に書いたような魔女だった。
夜よりも深い黒のローブ。フードを深く被っていて顔は良く見えない。

「私のことはどうでもいいでしょう?貴方の願いを叶えるのに私の名は必要ありません」

「何処から現れたっ!?」

「それも関係ありません。どうかその剣を収めてください。その剣もまた必要ではないのですから」

「・・・・・・願いを叶えると言ったな?どういう意味だ」

「言葉のとおり。貴方の望んでいること。つまり魔族にこの国を襲わせることです」

「そんなことは望んではいない!」

「そうですか?・・・・・・そうですね。しかし、貴方の恋人が英雄になることを、貴方は望んでいる」

「どうして・・・」

「どうして?私がそれを知っているか、ですか?それもどうでもいいことです。ただ私は貴方の願いを叶える。
 そのためにここにいます。貴方の恋人の持つ剣が斬れるもの、それは貴方の考えている通り」

「どうです?悪くない話でしょう?」

「悪くない、だと?俺は騎士だ、この国を守るのが俺の使命だ!」

「ではこうしましょう。呼び出すのは一体だけ。その一体を倒せばこの国は救われます。もちろん、
 とても強い魔族なので他の人間に倒されることはないでしょう。貴方の恋人以外の人間には・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「そうですね、考える時間をあげましょう。一つだけ、答えを決めやすいように助言を。貴方の恋人、
 騎士団の人間になんと呼ばれているか、まさか耳にはさんだことがないとは思いませんが、貴方の
 答えを決める手助けになるでしょう。では、次の満月の晩、再び参ります。そのときまでに答えを
 決めておいてください。もっとも・・・」

「もう決まっているでしょうけど」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「それでは、ごきげんよう」

魔女は現れたときと同じように、気がつくと姿を消していた。
魔女の言葉は彼を悩ませた。だが、その言葉どおり、もう答えは決まっていたのかもしれない。






翌日、彼は彼女に会いに来ていた。
もちろん恋人同士、二人が会うこと自体はおかしいことではない。
だが、彼の様子が少しおかしいことに彼女は気づいていた。

「どうしたのよ?元気ないじゃない」

「・・・・・・なぁ、その剣の事なんだが、お前の家に伝わってる話はないのか?その、つまりその剣は
 何が斬れるのか、どうすれば鞘から抜くことができるのか」

「そうね、話したことなかったけど、少しだけあるわ」

「ほんとうか!?」

「ど、どうしたの?変よ、どうして急にそんなこと・・・」

「あ、いや、ちょっと気になってな」

「・・・・・・・・・まぁいいわ。一応うちの剣だからね、本当かどうかわからないけど、
 ひとつだけちょっと本当っぽい話があるの。昔ね、そう100年くらい前・・・」

彼女が語った話は彼が調べた本の内容と同じだった。
だとすればあの魔女の言うことも本当のことかもしれない。
彼は魔女の言葉を思い出す。

「望み・・・か」

「・・・ねぇ、話聞いてた?」

「あ、あぁ聞いてたよ。そうか、だとしたら、もしまたそんなことになったらお前がその剣で魔族
 を追っ払ってくれるんだな」

「もちろんよ。でも、この話が本当なら、やっぱりこの剣は鞘に収まったままがいいのかな・・・」

「それはそうだけど。もしもの話、敵が一体だけなら、お前一人で国を救えるわけだし」

「そうねぇ、あんまり現実的だとは思えないけど。大群じゃなかったら襲ってきてもらいたいかな。
 なんて、冗談よ。私も騎士だから、国が平和ならそれでいいわ」

「そう・・・か。それじゃあもう行くよ。これから仕事なんだ」

「えぇ、いってらっしゃい。気をつけてね」

彼は去り、彼女は一人になった。

「・・・・・・どうしたのかしら、あんなに思いつめた顔して。私にも・・・話せないことなの?」

二人は真に愛し合っていた。
彼が悩んでいることに、彼女が気づかないわけが無かった。
しかし、それからしばらく忙しい日々が続き、二人は会うことのないまま数日経った。






約束の満月の日の昼過ぎに、クリスは最後となるであろう旧友との邂逅に臨んでいた。
処刑の前日の囚人は皆、その罪を悔い改めるために教会に送られる。
そして最後の懺悔を済ませた後、教会の地下に内密に設けられた牢で最後の夜を過ごす。

時を止めたような静謐の中、地下牢を訪れる一つの足音。
その足音が翌日処刑される男の牢の前で止まった。

「アンジェロ・・・・・・」

「クリス、来たのか」

クリスの呼びかけに、壁際の机で手紙を書いていたアンジェロが振り向いた。
旧友が来たことを意外に思うような声で、その名を呼んだ。
そして筆を置き立ち上がると鉄格子の前、クリスの前に立った。

「久しぶり」

「あぁ、来ないかと思ってた。今更どんな顔で会いに来るんだ」

「・・・・・・・・・」

「なんて思ってるだろうって思ってたぜ。お前の考えそうなことだ。でもまぁ、会いにきたって事は
 俺の考えてることもわかったってことか?別に俺はお前を恨んじゃいないし、嫌ってもいないし、
 もちろん会いたくもないなんて思ってないって」

「背中を押してくれたやつがいてね」

「なるほど。いいやつを見つけたんだな」

「あぁいいやつさ」

「ふ〜ん。女か」

「よくわかったな」

「顔見ればだいたい。一度会ってみたかったけどな」

「・・・・・・・・・・・・」

「そんな顔するなって。遅かれ早かれきっと俺はこういうことになってたよ。処刑されるっていうのが癪だけど、
 どうしようもないもんな。それよりさ、来たついでにこれ預かっておいてくれないか?」

そういいながら彼は机にあった手紙を小さな封筒に入れ、封をして再び鉄格子の前に座った。

「妹に頼む」

クリスは渡された封筒にある名前を見た。

「イリアちゃんか」

「あぁ、ちゃんと手渡してくれよ?ついでにちょっとくらい慰めてやってくれ。両親の次は兄貴に先立たれて、
 なんていうのはあいつにはちょっときついだろうから。まぁ俺が悪いんだけどな」

「わかった。必ず探し出す」

そう答えると、預かった手紙を懐に大事に仕舞い込んだ。

「俺の予想だと、プロンテラにはいるだろうけど明日は来ないだろうな。お前も来ないだろうからそのときにでも
 探してくれ。顔、ちゃんと覚えてるか?まぁ実は俺も忘れそうなくらい会ってないんだけどな」

そう言って少しだけ笑った彼の目は、もう二度と会えない大切な誰かを想っているような、そんな目だった。
喩えるまでもなくその通りだっただろう。

「俺もずっと会ってないけど、目を見ればわかるさ。お前と同じ色の目をしてたからな。結構めずらしいだろ、
 その色は。黒と赤の中間っていったらいいのか、難しいけど」

「そーいや昔っから全然似てないって言われてたけど、目だけは同じだって言われたなぁ」

「だから大丈夫」

「よし、じゃあそれの心配はなくなったから、そうだな・・・お前のパートナーのこと聞かせてくれよ」

「あぁ、何から話そうか・・・」

もともと時間のわからなくなるような空間だったから、というわけでもなかったかもしれないが、
ふたりは時間と場所を忘れて、遠い昔のように日が暮れるまで話をした。
牢屋の番人が終わりを告げに来るまで話は止まることがなかった。












「それじゃあ、行くよ」

クリスは立ち上がり、後ろに立っている兵士から白い紙を受け取った。
そして同じように立ち上がったアンジェロに黙って手渡した。

「もう書く相手はいないんだがな」

彼もそれが手紙用の紙だとわかっていた。さっきまで書いていた紙と同じだったので当然かもしれない。

「会いに来たら頼まれると思って持ってこさせたんだ。後で書く相手思いついたら困るだろう?」

「思いついたら使わせてもらうさ」

「それじゃあ、行くよ。じゃあな、アンジェロ」

「あぁ」

そうして二人は昔のように別れた。
幼い頃、約束がなくてもまた会えると信じて疑っていなかった頃のように。
これが永遠の別れだと認めたくなかったわけではなく、
ただそういう風に別れるのが自分たちには合っていると、
二人とも思っていたのだろう。

クリスと兵士がいなくなってしばらくして、止まっていた空気が揺れた。

「ったく、俺のことほとんどわかってるくせに。最後の最後まではわかってないんだよな」

その言葉を、笑顔とも泣き顔とも取れるような、曖昧な顔をした男が最期に溢した。

「じゃあな、クリス。ありがとな。それと、すまない・・・」





















その夜、空に浮かぶ異界への門、
古より時を刻みつづける円なる月は、ただ静かに闇を照らしていた。
明るい朝に昇る太陽よりも、暗い夜に昇る月を人々は崇めていた。
それは人間も魔族も同じなのかもしれない。

「満月か・・・」

彼は自分の部屋で夜空を見上げていた。

「魔族を呼び出すのには満月の夜がいいのです」

そうして魔女は約束どおり現れた。






「それで、どうすればいい」

場所は彼の屋敷の空き部屋。
一家族が暮らしていけるほどの大きさの部屋には家具の類はなにもなく、
カーテンのない窓からは静かに月明かりが射しこんでいた。

「まず、これを飲んでください」

魔女は彼に小さな木の実ほどの大きさの何かを手渡した。

「これは?」

「一時的に魔力を飛躍的に上げる薬です。残念ながら貴方には魔力の欠片もありませんから」

「・・・・・・わかった」

彼は思い切ってその薬を飲み込んだ。
水がなかったので苦労したが、喉を通過するのを確かめて、腕や体を見回したが目にわかるほど変わったところはなかった。
もちろん体で感じるものも何もなかった。

「何も変わらないぞ?」

「いえ、これからですよ。まずはその魔方陣の中心に立ってください」

「魔方陣?そんなもの・・・」

彼はようやく気づいた。いつの間に描いたのか、その部屋の床いっぱいに魔方陣があった。
何かの石で描いたのか、月明かりに反射してその形を少しだけ見ることができる。

「これは、ガラスか?」

「いいえ。水晶を砕いたものを使いました。踏まないように。さぁ、中心に立ってください」

「あぁ」

彼は恐る恐る、言われたとおり水晶の欠片を踏まないように中心に立った。

「では、始めましょう。怖かったら目を瞑っていてもかまいません」

「俺がこんなもの怖がるか」

「そうですか。では、始めます」

魔女はそう言うと静かに何かを呟き始めた。呪文のような言葉の響き、召喚のための詠唱だろう。
彼にはその声は聞こえていたものの、言語が異なるのか、その言葉の意味を汲み取ることはできなかった。
部屋に射す月明かり、月明かりを反射する水晶、そして魔女の声。
どれも全て静かに彼の周りを取り囲んでいた。
とても魔族を呼び出すようには思えない。
召喚術などは一度も経験したことがない彼は不思議な気分でその光景の中心に居た。
もっとも、召喚術は既に廃れきった術であり、それを実践できる者などいないはずだった。
彼が経験したことがないのは当然なのである。



魔女はその長かった詠唱を終えた。
だが、それでも変化は訪れない。

「終わった、のか?」

「えぇ、もうほとんど。後は、そう・・・月の光」

「月?」

「外に出ましょう。月が、よく見えるように」








魔女の後に続いてクリスが外へでると、眩しいほどの月の光が降り注いでいた。
気温が低いのか、夜露が足元の草を輝かせていた。

「それで、この後は?」

「・・・・・・・・・そうね、ひとつ聞きたいことがあるわ」

それが普段の話し方なのか、さっきまでの口調と変わっていた。
違和感は感じたが、指摘するほどのことではないとクリスは思い何も言わなかった。
いや、それよりも月下に出てから自分の身体に感じている不思議な感覚があったのだ。
月明かりは魔力を強くするものだと聞いたことがあった。
今まで感じたことはない感覚だったが、これが魔力というものなのだろうと自分で納得していた。

「なんだ?」

「例えば、買い物をするとき、品物を受け取る代わりにお金を払うわね」

「当然だな」

「そう、当然ね。じゃあ、貴方の恋人が英雄になるためには、何を払えばいいのかしら」

「それが質問か?意味が、わからないが」

話しながらも身体に感じる違和感は増大していく。

「わからないの?そう、じゃあ私が教えてあげる」

魔女がクリスのほうへ振り返ると、その表情が垣間見えた。
思えばその魔女が現れてから初めて見せた表情だった。
口元だけで微笑むその顔は、彼が思い描いていた「魔女」そのもの。



「彼女が失うのは・・・」



妖艶な、冷淡な、そして残酷な、微笑・・・
魔女は彼にそのしなやかな人差し指を向けた。








「貴方よ」




















アウローラはいつも通り騎士団本部で雑用をしていた。
雑用とはゴミの集配や掃除など、騎士の仕事ではないものだ。
もちろん普通の仕事もあったが、週に三、四回はこういった仕事をしていた。

「なんだか騒がしいわね」

最後のゴミ袋の口を閉めた頃、一階の正面玄関の方が騒がしくなっていることに気づいた。
アウローラは壁に立てかけておいた彼女の剣を持って正面玄関へ走った。
ドアを開けて聞こえてきたのは悲鳴のような騎士たちの大声だった。

「モンスターだ!モンスターが出た!!」

「用意ができたやつから向かえ!中心部だ!」

そこにいた騎士たちはすでに二種類にわかれていた。
ひとつは冷静さを失わず、職務を果たそうとする者。
もうひとつは怯えているのか、ただ騒ぐだけの者。
対モンスターを想定しなくなってもう幾十年。
その二種類のうちどちらが多かったのか、数えるまでもなかった。

だが、アウローラは冷静に受け止めていた。
彼女が常にモンスターが襲ってきたときのことを想定していたからだろう。
ただ、クリスと二人で話したときのように、自分が活躍して功をたてることなどは考えていなかった。
頭をよぎったのは恋人のこと。
彼は今日はもう家にいるはずだった。
騒ぎの中で聞こえてくる場所の情報は彼の家のある地区だった。

「行かなきゃ」

騒ぐだけで動こうとしない騎士たちを横目に裏口へと走り出した。
正面の出入口は出る人間と入る人間でごった返している。
こういうときに指揮を取れる人間が必ずしも上の地位にいるとは限らない。
うまく機能しない上下関係など無意味であっても、それを言うことこそ今は無意味だった。
彼女は一人で中心部へ向かっていた。










途中避難する一般市民に道を阻まれたが、それでもなんとか流されることなく中心部に辿り着いた。
視界に倒れている人間の様子を窺ってみる。
暗くてよくは見えないが、まだそれほど被害が出ているわけでもなさそうだった。
それでも夜空や足元を見ない限り、2,3人は倒れている人間が見えた。
彼女は視界で動いた騎士を見つけ、走り寄った。

「怪我は・・・大丈夫、浅いですよ。モンスターはどこへ?」

「あぁ、奴は西の方へ行った。不甲斐ない・・・何もできなかった・・・」

彼は悔しそうに拳を握った。一人で戦っていたのは明らかだったが、それをいい訳にはしなかった。
今、騎士団の本部で右往左往している誰よりもきっと勇敢だっただろう。
彼の周りには3本もの折れた剣が転がっていた。
それが無謀だったとしても、アウローラの目にはその騎士は、誰よりも騎士らしく映った。

「いえ、そんなことはないです。ここで休んでいてください。動けるようなら教会へ」

そう言って彼女はまた走り出そうとした。

「待て、一人では無理だ!!」

「大丈夫。私も貴方と同じ、騎士ですから」

振り返って答えたその声には恐怖の色は見えなかった。
彼女は小さく頭を下げるとまた西へ走っていった。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで見送って、倒れていた騎士は腕を使って上体を起こした。
視線を彼女の消えたあたりに置いたまま、彼はため息をついた。

「まったく、噂は当てにならないものだ。わしの部下よりずっと騎士らしいではないか」

誰に言った言葉でもなかったその言葉は、結局誰にも届くことなく消えていった。
再び倒れこむと、夜空に大きな満月が見えた。
こういう日は血が止まりにくい。知らないうちに身体が狂気に染まっているのかもしれない。
傷ついてもなお暴れようとする四肢は、もしかすると自分とは違う意思に支配されているのかもしれない。
だが、彼女の言ったとおり、休ませなくては動けないだろう。
そう思ったとき、彼の耳には頭の方向から走ってくる足音が聞こえてきていた。

























「教会に近づいてる・・・」

アウローラは人が倒れている道を選んで進んでいた。
意識のある人間にモンスターがどの方向へ聞こうとしたことが、
あまりの恐怖のためか、自己を保てないでいる人間ばかりだったからだ。
だから建物の被害が大きい方向へ走っていた。
走りながら気づいたのはモンスターがクリスのよく通っていた教会の方にいることだった。
あの教会が破壊されたら、彼は悲しむだろう。
そう思って走る足に力を籠めた。モンスターに出会う前に体力を消耗するなという囁きが聞こえていたが、
彼女の中心はそれを無視して全力で走った。


そしてついに、月明かりに照らされて闇に浮かび上がらせる巨体を見つけた。
途中の足跡や建物の壊れ方から見ても、決して小さい敵ではないとは思っていたが、
その巨体は彼女の予想を遥かに上回っていた。

「こんなの・・・どうやって戦えっていうの」

彼女の冷静な部分は戦うことを否定した。
それもそうだろう。戦うという発想自体、これを目の前にして浮かぶことが異常だ。
まるで城門を一人で破るようなものだ。
だが彼女の冷静な部分は表面の薄皮一枚だけだった。


アウローラはモンスターの進行方向に立ち、まるで知っていたかのように、
今までのそれの存在が嘘であったかのように、彼女の持つたった一つの剣を、
鞘から抜き放った。




「これ以上は、行かせないっ!!」

すぐ後ろにはもう廃れた教会があった。
そういえば彼と初めて出会った場所もここだった。
そんな思考が目の前の異形と関係なく生まれる。

彼女の叫びに呼応するかのように、モンスターは天を仰ぎ、雷のような咆哮をあげた。
その隙に彼女は周りに人がいないか一瞬で確認した。
誰もいないことに安心して再び目の前の怪物の動きに意識を集中させる。
幸い一応は人間を大きくしたような形はしていたので、動きは読みやすかった。
腕が2本以上あったら、足が2本以上あったら、簡単にはいかない。



大木のような腕がアウローラの居た場所をなぎ払う。
順番に右、左、右と地面をえぐってはいるが、一度も彼女を捉えられないでいた。
しかし彼女もそうされている限り手出しはできない。
近づけば足くらいは斬れるだろうが、その間に自分は死んでいるだろう。
敵の巨体を見た瞬間に、もうやるべきことは決まっていた。
攻撃をかわしながら、ずっと「それ」を待っている。

最初はなんとなく敵の攻撃の数を数えていたアウローラだったが、
それが10を超えてからは数えるのをやめていた。
もともと意味ある思考ではなかった。
敵の攻撃のリズムもここまで大きいと関係ない。
一撃一撃が防御の弱いアウローラには必殺の一撃。
避けることしかできなかったが、避けられないほどの速さではなかった。




視界の石畳がすべて捲れ上がった頃、モンスターが初めて違う動きをした。
腕を横に振っていただけだった今までとは違い、肘を折り曲げ、拳を握っている。
これを彼女は待っていた。
殴って押しつぶそうとすれば、必ず地面に腕がぶつかり、そこで止まる。
その攻撃さえ避けられれば、次の瞬間には地面から相手の頭へと腕の階段ができている。

予想通りまっすぐ飛んできた拳は彼女のすぐ横を通って地面に落ちた。
地面が吹き飛び彼女の足や腕に当たったが、そんなものは致命傷には程遠い。
そのまた次の瞬間には、彼女の足はモンスターの腕を登っていた。

「眠りなさい」

アウローラは肩まで登り、囁くように大きな耳に告げた。
彼女の右手には月光を反射して輝く子守唄。

「せいっ!!」

肩から飛び、そのまま落下と共にモンスターの頭へと剣を振り下ろした。
剣はまるで何も障害物がないかのようにそのまま胴まで沈み、その中心で止まった。
彼女はそのまま剣を放し、地面へ飛び降りた。
地面が平らではなかったので、倒れそうになる。

「おっと・・・・・・終わった、かな」

見上げるモンスターの巨体は静かに崩れ始めていた。
目を瞑っていたら気づかなかったのではないかというくらいの手ごたえだった。
それでも見れば、もう目の前の敵は動く気配すらない。
地面に腕を刺したまま、雪のように静かに崩れていく。

アウローラはもう襲ってくることはないと判断して、無意識に投げ飛ばした鞘を捜そうと背を向けた。
道はとてもじゃないが普通に歩ける状態ではなかった。
うっかり転ばないよう注意しながら鞘を探し回った。

思ったよりすぐに鞘は見つかった。だが、拾おうと膝を折ったとき、背後から何かが倒れる音、
そして、自分の名前を呼んだような声が聞こえた。

一瞬、モンスターが喋ったのかと思ったが、すぐに否定した。
背後に倒れていたのは明らかに人間だった。少し離れてしまっていたが、それでも分かる。
その人間に突き刺さった剣の刀身が月明かりを集めて輝いていた。
そこだけが昼間のように明るいとさえ錯覚する。
彼女は恐る恐る近づいた。その人間が怖かったわけではない。
自分の名を呼んだその声が、あまりに誰かに似すぎていたからだ。

そして仰向けになったその顔を見て、自分の名を呼んだが気のせいではなかったことを知った。
そもそも間違えるはずがない。自分の名前を呼んでくれるときの彼の声が、
一番好きだったのだから。



「・・・クリス・・・どうして」

その声に反応して、クリスは目を開いた。

「・・・アウ・・・ローラ」

「こんなの・・・嘘でしょ?何かの間違いでしょ?ねぇ、わかんないよ、どうして貴方がここにいるのよっ!?」

「本当に・・・すまない。馬鹿なことしちまった。悪いが、これを・・・」

そう言って彼は懐から一通の手紙を取り出した。
アンジェロから預かった妹への手紙だ。

「あいつの妹に、探して、頼む」

「うん、わかったから・・・わかったから、もうしゃべらないで」

「結局・・・なにもしてやれなかったな」

「そんなことないっ!そんなことないからっ!」

アウローラの曇った瞳から雨が降っていた。
さめざめと、クリスに降り注ぐ冷たい雨。

「アウローラ・・・・・・聞いてくれ」

次が最後になると悟ったのか、アウローラはゆっくりと顔を近づけ、
そして触れるだけの口づけをした。

「・・・言って」


残った命を乗せ、クリスはアウローラの頬に右手で触れた。
その手をやさしくアウローラの左手が包む。

「君を・・・愛してる」

「私も・・・あなたを愛してる」

そして、頬に触れた手は伝わり落ちる涙を拭い、地面に落ちた。














アウローラは汚れてしまっていたクリスの顔を布で拭き、
両手を胸の上で組ませると、立ち上がって突き刺さったままの剣の柄に手をかけた。
痛々しいその姿をそれ以上さらしてはいられなかった。

そして静かに剣を抜こうとしたとき、近づいてくる足音が聞こえてきた。
現れたのは3人の騎士。全員見たことはあるが名前も覚えていない相手だった。

「モンスターは!?」

「・・・・・・倒しました」

「お前が!?」

騎士たちはアウローラの顔をみて声を上げた。
驚きよりも、疑う気持ちのほうが大きいような反応だった。
しかし、その場を見れば明らかに大きな戦闘があったことが窺えた。
石畳はめくれあげられ、見渡す限り破壊の跡しか見つからない。
アウローラの背後にある古い教会が建物の形をしていることが不思議なくらいだった。

「そうか・・・。待て、そこに誰か倒れているのか?」

騎士の一人がクリスに気づいた。
そして倒れた彼から生えている剣にも。

「・・・まさか」

3人ともアウローラに近づいてきた。
月明かりがあるとはいえ顔を確認するにはよほど近寄らない限りは無理だった。
そして、死体の顔を確認して驚愕の声を上げた。

「公爵様っ!?」

「貴様、公爵様を!」

「え?」

冷静に考えれば、誰がどう見てもアウローラが殺したように見えるだろう。
いや、事実その通りだった。ただ、クリスの姿かたちが大きく違っただけだ。

「モンスター騒ぎのどさくさに紛れて公爵様を殺したのか!?」

「そんな・・・私は」

だがアウローラ自身、自分がクリスを殺したのだと思っていた。
モンスターの正体がクリスだったと話しても、到底信じては貰えない。
いや、そんなことは事実だったとしても言う訳にはいかなかった。

狼狽するアウローラに向けて剣を構える3人の騎士。
一瞬、このまま殺されてしまおうと考えたが、すぐに考え直した。
預かった手紙があったからだ。
クリスの最後の約束を果たさなくてはならない。
アウローラはクリスに刺さったままだった剣を抜き、後ろに跳んだ。

「行かなくちゃ・・・」

言い聞かせるように呟いた。

「ふん、こっちは3人。逃げられるものか!」

叫ぶやいなや、3人同時にアウローラに斬りかかった。
一撃、二撃、三撃。受けずに避けた。
受けられなかった訳ではない。ただ、思い出したことがあったのだ。
この剣に斬れるものはたった一つ。
その言葉が本当なら、もう手に持つ剣は使えない。

しかし、いつまでも避け続けるわけにもいかない。
彼女にはやるべきことがあった。
時間が経てば経つほど人が集まってくるだろう。
できるだけ早くカタをつけなくてはならない。

ひとつ決心をした。
恋人も死んでしまった。いや、殺してしまった。
それを人に見られ、騎士ではもういられないだろう。
そして、一人では生きていけない・・・

「邪魔するならっ!!」

アウローラは隙をみて斬りかかった。相手はそれほど強くない。
3人同時に相手をしてもおつりがくる。
剣も刀身がある以上、斬ることはできるはずだ。
そう考えて、反撃に出た。
今彼女が優先するものは、彼の友人、アンジェロの妹を探すこと。
一番の手がかりは、その友人だった。
朝になれば処刑されてしまう。時間はないのだ。

思い切り振りかぶった一人目の攻撃を避けた隙に二人目の胴を薙いだ。
頭上に迫る三人目の攻撃を刀身で受け、蹴りをいれる。
そしてまた一度後ろに跳んだ。
一人殺してしまった・・・
そう思って相手の身体を見たが、どこからも血が出ていない。
二人目は確かに斬ったはずだった。
致命傷を与えたつもりだったのに、ただ苦しんでいるだけだった。
もしかしたら剣のせいかもしれないと思い、刀身を確認した。

さっきまで月明かりを受けて輝いていたはずの剣は
いつのまにか鞘に収まり、今までどおり、斬ることのできない剣に戻っていた。
思い返せばいつもどおりの手ごたえ、つまり鞘に収まった剣の手ごたえだったのだ。
騎士たちは傷ついた仲間の肩を担ぎ、一度アウローラを睨み、
適わないと悟ったのか、背を向けて逃げていった。

「・・・よかった」

殺さずに済んだことに感謝しつつ、もう一度剣を抜こうとしたが抜けなかった。
本当にひとつのものしか斬れなかったのだろう。


「クリス、このまま行くけど許してね。急がないといけないから」

名残惜しそうに一歩ずつクリスから離れ、決心して振り返ると、
ひかれる後ろ髪を無視して、もうひとつの教会にいるアンジェロのもとへと走り出した。















すれ違う人間は教会が近づくほど増えていった。
教会へ向かう途中、先程の怪我をした騎士が倒れていた場所を通ったが、
その騎士はおろか周囲に居た一般人も姿が見えなかった。
プリーストに怪我を治してもらい、移動したのかもしれない。
どちらにせよ今は誰にも会いたくないのだから好都合だと、アウローラは走る速度を上げた。
それから教会までの道ですれ違った騎士やプリーストたちはまだモンスターを探しているのだろう、
走り抜けていくアウローラに見向きもせず、それぞれ方々へ走り回っていた。

そして教会の前。
数年前に建立されたばかりの真新しい建物の入り口には、
けが人を探しに出るプリーストと、けが人を連れてきた騎士や民間人で溢れ返っていた。
誰も彼もせわしなく走り回り、アウローラの姿に目を留める者は誰も居ない。
しかし正面から忍び込む気にはさすがになれなかった。
教会の裏手へと回り込み、裏口から地下牢へと急いだ。
時間が経てば先程の三人の騎士たちの情報でアウローラを探す人間が増えるだろう。
もしかしたら捕まえるようなことはせず、その場で殺されるかもしれない。
もう騎士団の中には自分を庇うものは誰も居ないのだ、それが彼女にはよくわかっていた。


地下へと続く階段を一歩一歩なるべく足音をたてないように降りた。
当然、牢には守衛が居る。剣で少しの間眠ってもらうつもりで守衛部屋まで降りてきたアルローラだったが、
そこで見つけたのは床で眠りこける守衛の姿だった。
一瞬居眠りでもしているのかとも思ったが、どう考えても不自然だった。
壁の鍵束もなくなっている。通常、鍵束は使わないときは壁にかけておく決まりになっていた。
ここに来るのは初めてだったが、明らかに鍵がかけてあったであろう場所にないのだ。
念のため守衛が持っていないかどうか確かめたが、結局見つけることはできなかった。

(誰か先客が来てるみたいね)

アウローラはもう一度剣が抜けないことを確認して牢の並ぶ通路へと足を向けた。
鞘から剣が抜けないほうが安心できている自分に気づいて呆れる。
結局鞘に収まっている剣のほうが自分には合っていたのだ。
騎士であることに誇りを持っていた。
しかし、解き放たれた剣で最初に斬ったものは最愛の人。
騎士の証である剣のはずだったのに、もたらされたのは騎士としての自分の終焉だった。

今は預かった手紙を届けることだけ考えればいい。
そう自分に言い聞かせるように、一歩一歩確かめながら暗闇を進んだ。
手がかりはアンジェロだけだ。
アウローラは彼の妹をまったく知らない。
顔も名前も今どこに居るのかもわからなかった。
時間をかけて探せば見つけ出せないこともないだろうが、それがないのだ。




松明の明かりだけが煌々と牢を照らしていた。
そして、ひとつの牢の前に座り込む人影が見えた。

「・・・誰?」

アウローラは静かに問いを口に出した。
彼女がいることに気づいていたのか、その人影は何も答えない。
その人影は真っ黒なローブに身を包んでいた。
顔もフードで覆っていたので顔は見えなかったが、生きていることだけは分かった。

「・・・アウローラ」

「どうして私の名前を?」

「ごめんなさいね。貴方達のことは調べさせてもらったのよ」

貴方達、自分とクリスのことだろうか。
一瞬恋人のことを思い出し、感情が揺れ動いたが、それを押しとどめ、疑問を投げかけた。

「貴女は?」

「もう、どうでもいいわ。こんなことになるなんて・・・馬鹿みたい」

アウローラは目の前の女に注意しながら、その女の目の前の牢を覗いた。
松明の明かりは決して明るくはなかったが、それでもわかった。
牢の中で人が倒れている。
開いていた牢の扉をくぐり、倒れた人間の様子を調べたが、もう息はなかった。
今日この地下牢にいるのは一人だけのはずだった。
つまりこの首から血を流して死んでいるのがアンジェロだろう。
結局、生きている間にアウローラはアンジェロが出会うことはできなかった。

「・・・どういうこと?」

「聞きたい?」

「えぇ」

「そうね。聞いて、その後は好きにしたらいいわ」

「・・・・・・」

「最初はきっとあの人がなんとかしてくれるって信じてたの。兄さんと仲の良かったあの人ならきっと、って。
 でも、見事に裏切られた。あの人は自分の地位を守ることしか考えてないんだって思ったの。
 それを捨ててまで親友を助けることができる人だって思ってたのに。あの人はそうしなかった。それどころか
 兄に会いに来ることもしないで、恋人と二人楽しく過ごしてた。それが許せなかった。私の兄さんは処刑されて
 しまうのに、どうして何もしてくれないのって。だから、私は自分でなんとかしなきゃいけないって思った。
 色々調べたわ。そして計画を立てた。ただ逃がすだけじゃ追っ手がかかるのは間違いないもの。
 私は全部用意を済ませて会いに行った。あの人、貴女の恋人のクリスさんに・・・」

「あなたやっぱり・・・」

「そう、初めましてね。アンジェロ兄さんの妹でイリア。私は貴女のこと良く知っているけどね。貴女のこと調べてて
 とても面白い計画を思いついたの。兄さんを助けて、裏切り者に復讐できる最高の計画。そう思ってた。
 さっきまでそうなるって信じてた。でも、いざ会いに来たら・・・もう兄さんはいなかった。ほんと笑っちゃうわ。
 今日の昼間にクリスさんが兄さんに会いに来たのよ。何を今更って、そう思った。でも、一番遅かったのは私。
 私は結局会うことすらできなかった。机の上に置いてあった手紙も、私じゃなくて、クリスさん宛てだった・・・」

全てを吐き出すように語りつくすと、イリアは両手を床について涙を流した。
アウローラは泣き崩れるイリアの隣に膝をつき、そっと預かった手紙を彼女の目の前に差し出した。

「貴女への手紙よ。アンジェロさんがクリスに託した手紙。私もクリスに頼まれたの。貴女を探し出して渡すようにって」

「・・・兄さんの」

イリアは恐る恐る手紙を受け取り、涙を拭くと、松明の明かりを頼りに読み始めた。

それほど長い手紙ではなかったが、イリアは何度も何度も読み返した。
そこに書かれていたことはアウローラにはわからない。
遺書となる手紙を他人が気軽に見れるわけもない。

アウローラはただじっと、イリアの様子を眺めていた。
頼まれた手紙はこうして驚くほど早く渡すことができた。
とりあえず最初の目的は達成できたのだ。
だがもう一つ、もしできるなら、成し遂げたい事が一つだけあった。
それは、クリスの仇をとることだった。

どうしてもクリスが自分の意思であんなことをしたとは考えられなかった。
誰か彼を貶めた誰かが居る。そう考えることがアウローラには自然なことだった。
正直、その相手を探す時間などないと思っていた。
しかし、予想に反して見つかってしまったのだ。
まさかとは思った。話を聞いていてそんなことをするような人間には思えなかった。
イリア自らが自分が計画したのだと言ったばかりだとしても・・・






「私は・・・」

そう呟きながら手紙を畳んで懐に仕舞い、イリアはアウローラに対峙するように立った。
もう涙は流していない。今はフードを外しているおかげでその表情は松明の明かりの中でもよく見えた。

「私は兄さんの、アンジェロの本当の妹ではないの」

「え?」

一人で思い悩んでいやアウローラには、その言葉はゆっくりと小波のように入り込んできた。
イリアがアンジェロの妹であることは間違いない。恐らく血の繋がっていない兄妹、ということなのだろう。

「ううん、それどころか、私はまともな人間ですらないの。アウローラさん、私は何歳くらいに見えますか?」

その質問に意味があるのかどうか、アウローラには判らなかったが、正直に見たとおりの歳を言った。
多少の違いはあっても大きく外れるようなことはないだろう。
イリアは多く見積もっても自分と同じくらい、暗さや装束を踏まえて考えて、最低でも17歳くらいに見えた。

「そう、ある意味では正解。でも、この世界にいる年月で言うなら、まったく見当外れ。私は・・・
 もう100年以上生きているの。死なないのよ、この身体は」

「どういう・・・こと?」

「呪い、ね。私にとっては。こんな身体になったとき、初めは神の祝福だって言われたのよ。私だって、そう思った。
 でも、時が経つにつれて、その考えも変わって行った。それこそ語りきれないくらい、色々なことがあったのよ。
 色々ありすぎて、だから、全てを忘れたかった。私は私のままでは生きていけなかった。私ね、昔はそこそこ有名
 だったのよ?会ったこともない人に名前を呼ばれるくらいにね。だから、それをいつだって終わりにしたかった。
 考えてもみて?歳をとらない人間なんて、それだけで化け物でしょう?少なくとも、ほとんどの人はそう考えるの」

「そんな・・・」

そんなことはない、と言おうとした。だが、そんな否定はイリアにとって何の意味もないのだ。
目を見れば、なんとなくわかる。溺れそうなほど、その眼は深く、悲しみの色を映していた。

「・・・・・・最初は偶然だったの。それはひどい亡骸だった。でも顔だけははっきりしてた。あのときの驚きは忘れられない。
 まるで自分の死体がそこにあったように感じたの。本当にそれくらい似てた。そのときはね全く可哀想だなんて思わな
 かった。これは神様か、もしかしたら悪魔が私のために用意した運命だって、そう思った」

「まさか・・・」

アウローラは自分でも驚くくらい、これからイリアの話す内容がわかってしまった。
イリアはその自分と瓜二つの人間と・・・

「そう、入れ替わったのよ。亡骸は丁寧に、絶対に見つからないように埋葬して、町で行方不明のあの娘を探す張り紙を見つけて、
 記憶をなくした振りをして、「いかにも」っていう感じのぼろぼろの服を着て、町の中をできるだけ目立つように歩き回って、
 驚くほど計画通りに家に『帰った』の。もちろん、不信がられたこともあった。でもね、私はそのたびに、その疑惑の記憶そのものを消した。
 知ってるかもしれないけど、ルーンには『忘却』っていうものがあってね。不死になって得た魔力は強大で、それを扱う私自身の能力も
 呆れるくらい高かったの。疑われて、消して、不信がられて、騙して。でも、本当に最初だけ。兄さんはとてもとても優しかった。
 いつだって決して戻ることなんてない私の記憶を探してくれたりした。その家での両親はすぐに死んでしまって、
 ほとんどの時間兄さんと二人の暮らしだった。隠れ蓑のつもりで被ったものは、暖かすぎて、私が得損なったすべてを注いでくれた。
 私はようやく、本当に普通で、幸せな一人の人間になったの。」

そこで、イリアはいったん言葉を切った。そしてため息混じりに、

「どこで間違えたのかしらね」

と呟いた。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

アウローラは何も言えず、ただ全てを語るイリアを見つめているだけだった。

「わかった?私は兄さんを死ぬまで騙し続けて、もちろんクリスさんも騙し続けてた。そして、今日は・・・」

「貴女にクリスさんを殺させたのよ」

今度ははっきりと、自分はクリスの仇だと、そうアウローラに告げた。







「仇を・・・探すつもりだった」

今度はアウローラが話し出す。

「でも、あなたを、私は殺せないっ!どうして私にそんなことを言うの!?わざわざ貴女を憎むようなことを・・・
 その話が本当なら、結局貴女は死なない!そうじゃなくったって、もう私には・・・貴女は斬れないのに!」

結局悩むまでもなく、答えははっきりしていたのだ。
アウローラにイリアは殺せない。

「ごめんなさい」

イリアは一言そう謝罪を述べ、言葉を続けた。

「貴女の剣、本当はひとつのものを斬れる剣なんかじゃないの。その剣は使う意思があればいつだって抜けるのよ」

「嘘。私はいつだって・・・」

「その剣を使って人を傷つけたいと思っていた?それこそ嘘。貴女はいつだって本当は、誰も傷つけたくなかった。
 今の時代はモンスターなんてほとんどいない。襲ってくるほどの強いモンスターなんていないの。だからわかってたはず。
 その剣が斬る相手は人間以外ありえなかった。だから、貴女にはその鞘から剣を解き放つことができなかったの」

「だったら、どうすればいいのっ!私は貴女を殺さないっ!」

「貴女が私を殺すようにしてあげる」

イリアは突然立ち上がりその右手でアウローラの頭を掴んだ。
そんなことをされるとは思わなかったからか、アウローラの反応が一瞬遅れた。
小さくてぬくもりのある柔らかい手。
掴んだと入ってもほとんど触れているだけのようなその手を拒絶することができなかった。



「私を・・・殺して・・・」


そしてこの言葉と共にアウローラの意識は薄れていった。



















高い音を響かせる松明の燃える音が牢獄内に木霊していた。
その中に一定の間隔で浸り落ちる水のような音が混じっていた。
奇妙なその音に少しずつ意識を戻され、アウローラは次第に辺りを知覚することができるようになってきた。
ぽたり、ぽたりと落ちる水の音は自分のすぐしたから聞こえてくる。
気づけば右手には剣の柄がしっかりと握られていた。

「・・・・・・水?」

夢見心地のような意識の中、その落ちゆく液体に注意を向けた。
それは足元に水溜りのように広がり、暗がりの中でなお黒く床にあった。
そしてその水溜りの中、横たわるもの。

「・・・なに・・・これ」

気づいていた。それが何だったのか、アウローラには判らないわけがない。
血溜りのなかにローブを広げ、その中からなお血を流し続けている。
ほんの少し前までイリアと呼ばれていたものがそこにあった。

アウローラは自分の右手にあるものをもう一度確かめた。
慣れ親しんだ柄の握り心地。そして慣れない輝く刀身。
今はその刀身も赤黒い血に染まっていた。

「・・・うそ・・・やだ・・・・・・私・・・・・・私が殺した・・・」

わざわざ言葉にすることもなく全ての状況が示していた。
アウローラ、お前がイリアを殺したのだ、と。

「・・・こんなの・・・嘘よ」

自然と力が抜け、アウローラの剣は床に落ち、牢獄内に金属音が響き渡った。
自分の身体を見れば返り血で赤く染まり、床に広がった赤の上に立つ足は震えている。

−−−怖い

それは初めての感情だった。
牢獄の静けさも、時々音を立てる松明も、目の前に横渡る人間も、そして自分自身も。
およそ世界の全てが恐ろしい。こんなところには居られない、でも・・・

「・・・助けて・・・」

−−−−−私は何処に行けばいいの・・・何処にも行けない・・・クリスの傍以外には。

そう思った瞬間、アウローラは走り出していた。
向かうのはあの教会。クリスと共にあったあの思い出の場所へ。

















教会から教会へ。
どこをどう走ってきたのか、途中で何があったのか、誰かと出会ったのか、アウローラにはもう何も判らなかった。
気が付けば教会の目の前に辿り着いていた。周囲には誰もいない。いや、誰か居るのかさえ気にならなかった。
少なくともクリスの亡骸はもうなかった。誰かが運んでくれたのだろう。
できることならもう一度会いに行きたかったが、もうその必要もないのだと思い直した。

朽ち果てそうな扉を開けて教会の中に足を進めた。
まっすぐ見つめる先にある大きなステンドグラスが少しだけ光を教会に落とし込んでいた。
東の空はもう明け始めていた。

アウローラは祈りを捧げるでもなく祭壇を通り過ぎ、右にある扉の奥の階段を上り始めた。
古くて小さい教会とはいえ普通の家よりもずっと大きく、そして天に伸びるように天井は高かった。
その階段は教会の屋根に上がるためのもので、ときどき上って街並みを二人で眺めたこともあった。
階段は老朽化していて悲鳴のような音を立ながらアウローラを屋根まで運んだ。
彼女の足はゆっくりと、自身をそこへ誘っていた。

小さな扉を開ける。
すると、優しく冷たい風が身体を包んだ。教会の屋上にある展望台。
ちょうど二人分程度の広さだったが、今はひとり。十分な広さだった。
その広さがアウローラの琴線に触れる。
うつむけば涙がこぼれてきそうだった。


教会の展望台は町が全て見渡せるほど高いところにあった。
視線を落とせば大勢の人間が見える。
そしてその人間たちは皆、アウローラのいる教会へ向かっていた。
彼女を捕らえに来たのだろう。だが、もう、遅かった。




アウローラは柵を乗り越えながら言葉を紡いでいた。


「剣に生き愛に生き、今まで悪事などには手を染めませんでした。いつも心からの信心を込めた私の祈りは祭壇に昇り、
いつも私は心からの信心を込めて祭壇に花を捧げました」


いつか一回だけクリスは言っていた。アウローラは聖職者に向いているのかもしれない、と。
彼女自身実は少しだけそう思ったこともあった。だが、結局彼女はそれを選ばなかった。
いや、クリスと共にあることを願ったのだ。



「でも・・・どうしてこんな報いをお与えになるのですか・・・。私はただ国を愛し、彼を愛していただけなのに。
 信心を込めた私の祈りは・・・届かなかったのですか。彼を愛しては・・・いけなかったのですか・・・」

言葉を紡ぐたびに新しい涙が溢れ出してくる。
ほんの数日前まで、少なくともアウローラにとっては幸せな日々だった。
確かに数で言えば辛いことのほうが多かったかもしれない。

「・・・クリスさえ傍に居てくれれば、幸せでいられたのに・・・」


アウローラの足は屋根の縁にまで来ていた。
そこまできてはたと気づいた。

「あ、そっか・・・」

今まで生きてきた自分の人生を振り返って、そしてそれが今日まで帰ってきたとき、わかってしまったのだ。
今日、たとえ自分の意思ではなかったとしても、二人の人間を殺してしまったことを。

「あはは・・・行けないよ、クリス。貴方のところに行けない・・・」

下を見下ろした。何人かの騎士たちが教会に入ってくるのが見えた。
自分の姿に気づいて見上げている者も大勢居る。
戻ることはもうできない。いや、そのつもりもなかった。

「ごめんね、クリス。私・・・イリアちゃんのところに行くね」

イリアの居る場所はきっとクリスとは違う場所だと思ったのだ。
きっと、天国にいけなかった者は皆、そこにいる。
結局、あのときが本当に最後の別れになったのだと、思い返せば最後に語り合った言葉だけは確かだと、
それは自分にとって本当に幸せだったと、最後にそう思えた。





「・・・・・・さようなら・・・・・・」






言葉と共にアウローラの足は・・・思い出の教会を・・・離れた・・・

























−−−−−−−−−−−−−−−−数日後−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−















扉をノックする音が聞こえてきた。
もうすでに日付も変わり、誰もが寝静まって、家の中で起きているのは自分だけだと思っていた。
もしかしたら妻が仕事に追われている自分に飲み物でも持ってきてくれたのかもしれないと、
そう思い椅子から立ち上がってドアを開けた。

「・・・こんばんわ」

だがそこにいたのは見たこともない少女だった。
いや、少女というほど若くもなく、女性というほど年月を重ねていない。
恐らく娘と同じくらいの年齢だろうと、そう判断した。

「君は・・・娘の友達かな?」

こんな時間に自分の部屋をわざわざ訪ねてくるはずもないと思ったが、それ以外は考えられなかった。
だが、友達が泊まりに来ているとは聞いていない。訝しげな表情を浮かべる自分に気づいたのか、
その少女は挨拶に続く言葉を続けた。

「夜分に申し訳ありません。勝手にお屋敷にあがったことも誤ります。でも、仕方がなかったのです。
 怪しまれるのも無理はありません。ですが、どうか私の話を聞いてくださいませんか?」

確かにどう考えても怪しい。なにせここは自分の家なのだ。
しかもそれほど大きくないとはいえ、人が勝手に入ってこれるほどでもない。
娘と同じ年頃だからだろうか、服装や顔つきを見ても怪しいとは思えなかった。
少なくとも自分を殺しに来た暗殺者だとは思えない。
色々な要素があったが結局その少女はその男の部屋に入ることを許された。






「話というのは?」

男の部屋には来客用にソファが置かれていた。
そこに少女を座らせると、男は紅茶を二人分淹れて少女の正面に座った。

「調べものをしていらっしゃったのですか?」

「ん?あぁ、知ってるかもしれないが数日前に起きた事件がどうもね・・・」

その言葉を、その顔を見なくとも少女にはわかっていた。だからこの男に会いに来たのだから。
今この国の騎士団で先の事件を不信に思っているものなど居なかった。
あの日、魔族を追いかけるアウローラと唯一出会ったこの男以外には誰も。

「そうですか」

「まぁ、他に誰も調べるものもいないからね。わしも下手に出世などしたものだから暇をもてあましておってな。それで・・・」

「アウローラさんのことを調べていた?」

「・・・あぁ、さすがに君にもわかるようだね。今も町中その話ばかりだから・・・」

「あの日、貴方の出会ったアウローラさんはどんな女性でした?一人で魔族に立ち向かい、
 敗れてもなお戦おうとする貴方のような騎士には、あの人はどういう風に映ったのですか?」

「君は・・・」

まるで自分とアウローラの刹那の出会いを見ていたかのように話す少女に、男は驚きを隠せなかった。
そんな男の態度を全く気にしない様子で懐から一冊の本を取り出すと、二人の間にある机の上に置いた。
一見するとそれは聖書のように見えた。

「これは彼女の家に伝わる剣だったものです。あの剣はもともと剣だったわけではないのです。
 人の意思によりその姿を変える『力』そのもの。あの日から見つかっていない彼女の剣は、
 今はこうして聖書のような姿になっています。そして、恐らくこの先何十年、何百年も開くことはない」

「わしには・・・話がよくわからない。君は何者なんだ?」

「判らないのも無理はありません。ですが、この本をずっと守って欲しいのです。
 この先、何百年でも。再びこの本が開かれるその日まで・・・」

「何百年・・・か。わしにはちと荷が重過ぎるようだが・・・」

何百年という言葉に男はため息をついた。気が遠くなるような話だ。この国ができてからまだ100年足らずだといのに。

「貴方の子孫に伝えてください。私が今はこの本の鍵になりました。数百の夏と冬の後、本は力を取り戻すでしょう」

「君が鍵?君が持つ鍵を君は子孫に伝えていくということか?」

「・・・・・・いえ」

少女は立ち上がり、そっと一回だけ本を優しくなでると、いつの間にかどこからか取り出した黒塗りのローブを羽織り、
部屋の窓のほうへ歩いていった。
男はじっとその様子を眺めていた。

「私は・・・死なない。死ねないのです。今回も、死ねなかった・・・」

男はその言葉にどう反応してよいかわからず、ただ聞くのみだった。

「よろしくお願いします、リガルハインツ・ローゼリアさん」

その瞬間部屋を明るくしていた明かりが全て消えた。
新月は夜を照らさない。手探りで明かりを付け直すと、少女は跡形もなく消えていた。

男は急いで窓を開けて外を見回してみるが、人影すら見えない。
そもそも窓は開いてなかったのだから少女が窓から出たとは限らない。
忽然と、消えてしまったのだった。



「・・・剣から形を変えた本・・・・・・何故わしのところに」




その疑問は答えられることもなく闇夜に解けていった。
残ったのは机の上に置かれた本だけ。
剣から本にその姿を変えたこの本は、千年の長きに渡ってこの血筋に伝わることになる。


















そして、約900年後








「何ーーこの本あーかーなーいーよーーーー!!」

「うん、ボクの家にあった本なんだけどね。前に姉さんがくれたんだ。大事に持っていなさいって」

「どんな本?・・・・・・ふぅん、ホントに開かないんだね」

一人は無理やり力で開こうとする獣のような耳としっぽの生えた少女。
もう一人は破かれないか心配になって本を優しく奪い取り、無事だったと安心している青年。
そしてもう一人は青年から本を受け取り手の感触で本であることを確かめる目の見えない女性。

傍目にも奇妙な三人組が森の中で休んでいた。
剣から本に姿を変えたアウローラの剣は、今この三人の手の中にあった。
まもなく来るその頁をめくられるその日を待ちながら。


















FIN